光る雲間のなかで・2
制服の上からではわからないが、ユリアン・ミンツの肩にはまだなまなましい傷が残っている。 当人は痛くないといっているが、医師たちから強い鎮痛剤を与えられており服用をすすめられていた。 痛みは生きている証拠だと青年は思っていた。 もちろんだからといって処方された薬を飲まなかったわけではなかった。 けれど痛みがあるとほんの少し自分の罪があがなえる気がした。 ユリアンは周囲に励まされていたがヤン・ウェンリーの深昏睡、仲間の死は自分に大きな責任があると思って いた。 それはあまりに自分を過大に評価していることになると青年は聡いので重々承知していた。自分ごときがいた 程度でテロを完全に防げたなどと過信するのは愚の骨頂であると誰に言われずともユリアンはわかっている。 それでも。 医務室で横たわっているヤンと、彼をかいがいしく世話しているフレデリカを見るにつけて青年は自分の ふがいなさに密かに嘆くことになる。 世の中の。 「世の中の不幸をすべて背負い込んだようなしけたつらをしている野郎がここにいると思ったら、ユリアン・ ミンツ。お前さんいつの間にそんなでかい大人になっちまったんだ。・・・・・・昨日まではおれの肩までしか 背丈もなかったのに。一体どうなってるんだ。」 オリビエ・ポプラン「少佐」はあらゆる意味で強者であったので多少のことでは驚かない。愛しい女性提督が 男であってもかまわない。やけに閑散とした要塞も知ったことではない。 しかし自分のかわいいと言えなくはない舎弟が14才の洟垂れ坊主だったのにどう見てもいっぱしの青年に 見える。見間違うことはない。知的さと温厚さを秘めたダークブラウンの眸。柔らかそうな触感の亜麻色の髪。 整いすぎるほど整った容姿。一角獣を思わせる端正な姿態。 問題はどう見てもポプラン「少佐」からはユリアン・ミンツ「軍属」がやけに大人に見えるということ。 アッテンボローは説明しはじめるとややこしいから。 「まあ、気にするな。今日は色んな不思議なことが起こっても明日には元に戻ってるんだから。おい。お前。 ユリアンとわたしとどちらと時間を共有することを希望しているんだ。」 「もちろん提督です。」 コンマ1秒の隙もなく返事が返ってきた。 それはそれで嬉しいようなおかしいようなアッテンボローである。自分さえ側にいればどんな不条理な環境で さえもオリビエ・ポプランは「かまわない」ようである。 「じゃあ、ユリアンのことは気にするな。ユリアンもポプランを気にせんでくれ。コーネフに言わせるとこんな 時のオリビエ・ポプラン転がしはわたしは宇宙で一番卓越した腕を持っているらしい。だからこいつはわたしに 任せておくれ。で、傷の具合はどうだい。まだ痛むだろう。」 「こんな怪我くらい大丈夫です。僕、若いですから。」 青年はこうでもいって自らが心に大きな傷を受けていることを隠すしかなかった。そしてそんな小細工はアッテン ボローには通用しないことも知っているが、彼女が見逃してくれるのをユリアンは期待していた。今、青年が心 から甘えられる人間は少ない。 翡翠色した眸がやさしく微笑んだ。 アッテンボローはユリアンが青年でいることを赦している。 青年は迷いながら、懊悩しながら大人の男へと成長するものだ。 「ああ。お前さんは少なくともわたしより12才は若い。肩の傷は早く治しておけ。軍事指導者として仕込まねば ならんことが山ほどあるんだ。メルカッツ提督も手ぐすね引いて待っておいでだからな。」 もうすでに幾万回もあの「レダIIの悲劇」はユリアンの責任ではないとアッテンボローは彼にいっている。 それでも・・・・・・・周りにいくら赦されてもユリアン・ミンツは自分を赦すことはない。 フレデリカが医務室では動かぬヤンの世話を語りかけながらかいがいしくしている。 ヤンが目覚めたとき。 青年は少しだけ前に進めるのかもしれない。 体だけは動かし続けなければならないが、心はあの6月1日で止まったままなのかもしれない。 「みっちり名将たるアッテンボロー提督から用兵術を学べるなんて光栄です。あと数日もすれば傷がふさがると ミキ先生が言ってますから大丈夫ですよ。」口先だけでも強がりをいっておかねば押しつぶされそうな喪失感 の中に青年はいた。 「強がることはいいことだ。勇気ってやつも同じ。そのうちその上着が体になじむようになる・・・・・・・。あれ。 これはひとのせりふだった。まあいいや。剽窃したところでそいつは怒るまい。」 くだんの言葉は以前初陣のカリンにポプラン「中佐」がいった言葉であった。ピロートークで亭主から聞いた 言葉が少し残っていた。 ポプランはたった一日で14才の子供が妙齢の青年に成長していることも不思議だったし、アッテンボローと ユリアンの会話もなぞだらけであったけれど・・・・・・アッテンボローがぎゅっとポプランの手を握っていたから。 なんの不安も感じなかった。 このひととなら、生きていける。 ポプラン「少佐」は時を超えてもなお、アッテンボローを深く愛していた。 「うちはいつものごとく安寧な夫婦だ。傍目には滑稽きわまれりだろうが当人たちには大きな障害はないんだ。 まあ、贅沢を言えば明日までに女性の体に戻りたいものだ。フェザーンの時のように二日も男でいると気が くさくさする。」 ユリアンもそうですねと相づちを打った。「よくわからないですが落ち着かないですよね。きっと。」 うん、とアッテンボローはいう。 ここだけのはなしだけどとアッテンボローは青年の耳を引っ張って聞いた。 「いつまでたっても収まりが悪い。こういうものは右なのか左なのかどちらに寄せるべきなんだ。ユリアン。」 青年は咳き込んだ。 「そういうことはご主人と決めてくださいっ。きわめてプライバシーを含む問題じゃないですか。」 そうだよねとアッテンボローは悪戯っぽく微笑んだ。 ユリアンは久しぶりに、笑った。 ダスティ・アッテンボロー・ポプランという女性は雲間から漏れる一筋の光のごとく、あたたかい。 じゃあなと女性提督、本日男性は最愛の夫の腕を抱えて小粋なウィンクをしてその場を離れた。下品な ジョークも青年に悲しみ以外の感情をわき起こすためであった。 そしてそれは見事に、成功した。 「提督、右でも左でもいいんですよ。」 部屋の鍵を開けているときにポプラン「少佐」はアッテンボローの耳元で囁いた。 「あれは冗談だよ。右でも左でもいいのは予想できる。というかよく聞こえたなあ。お前って地獄耳だね。」 耳まで真っ赤にしてアッテンボローは自分たちの部屋にポプランを押し込んだ。 聴力も視力も人並みはずれているんですけれどねと「25才のポプラン少佐」はときめきの女性提督の部屋に とおされてつい周りを見渡した。 ・・・・・・・。 「なんか調度品が少なくなってませんか。」 「気のせいだよ。珈琲でいいかな。酒を飲むかい。」 気のせいではない。 以前二人がイゼルローン要塞で暮らした時に使っていたものはダヤン・ハーン基地に行くことになったときに フレデリカにハイネセンへ送ってもらっている。部屋にそぐわない調度品はあり合わせのものを二人で用意した のであるが、残念ながら今のポプランにはその記憶がない。ただ。 それらをいちいち説明したところで今日のポプランは覚えることができない。 そして明日のポプランはそれを忘れている。 それが一過性全健忘である。 「こんな朝から酒飲んでいいんですか。提督。」 ・・・・・・。 「お前さんからそんな優等生よろしくの回答を得るとは思わなかった。まあ珈琲を入れるとしようか。ダヤン・ ハーンの時よりはうまい珈琲を入れることができるだろう。」 「ダヤン・ハーンって・・・・・・確かもう壊れているとかいう宇宙基地でしょ。まさか提督赴任した経験がおあり なんですか。」 なんと愛らしい、オリビエ・ポプラン少佐。 しかし以前軍医長はそう度々起こらないといったはずなのになぜポプランはまた一過性全健忘になってしまっ たのであろうかとフィルターの珈琲に湯をおとしつつアッテンボローは考えた。何度忘れてもポプランはアッテン ボローを忘れない。 必ず、アッテンボローの元に還ってくる・・・・・・・。 妻として冥利に尽きるのであろうがいささか夫の脳が心配になる。心配ないと軍医も女医もいっている。それでも これからまだ数十年一緒に生きていく亭主である。心配にもなる。 もっとも男になってしまう自分にはもう達観しているふしがある。 なるものは、なるのだと。 「提督、どうして髪の毛切っちゃったんですか。ショートボブ。かわいいですけど。罰ゲームですか。」 「んー。まあそんなところだ。長い方がよかったのか。」 「いえ。どちらもお似合いです。ときめきが止まりません。」 交際をして四年たつがときめくといわれれば悪い気はしないなあとアッテンボローは微笑んだ。世の女房どの が聞きたくてもなかなか聞けないことをさらりと言ってくれるのが、自分の亭主のかわいいところだと彼女は思っ ている。 「サービスをしてブランデーを入れた。多分お前の好みの味になっていると思うけど。」 と、ポプランに珈琲カップを渡した。 「提督は男になってもかわいいなあ。いただきますね。」 一口含むとポプランは驚いた。 世辞など言わなくてもいつの間にかこの女性提督は自分の好みの味の珈琲を入れてしまう技術を習得している ことに目を瞠った。実際は、数年も同じ部屋で寝起きしているのだしアッテンボローは調理だの家事だのの方面 でも達人に近い女性だったので当然といえば当然なのであるが、一過性全健忘ではポプラン「少佐」には不 思議としかいいようがない。 アッテンボローは素知らぬ顔していつものようにポプランの膝に座った。 ・・・・・・・これもポプランには不思議でたまらない。 アッテンボローにはごく自然な日常なのであるが。色んな質問がポプランから矢継ぎ早に飛んでくるが、彼女は 「うん。秘密。」「うん。内緒。」とはぐらかす。巧みなポプランころがしを繰り広げつつ思わせぶりに聞こえるアッ テンボローの言葉に悶えているポプランにかまわずに呟いた。 「生きてるんだから、いいよね。」 わからないポプランの額にアッテンボローは唇を当てた。 あたたかな、肌。 フレデリカはたえている。 いくら生物学上生きているといってもヤンはフレデリカの問いに何一つ答えてはくれないのだ。手を握っても握り かえしてはくれないのだ。昔のように。あの優しい笑顔を彼女に向けることも今はまだない。 いつ、その日がくるのかすらわからない。 それでもヤンが目覚めることを信じて、フレデリカはたえている。 一過性全健忘であってもポプランはその緑の双眸にアッテンボローを住まわせてくれる。 指を絡めればそっと握りかえしてくれる。 唇をあわせれば受け入れて抱きしめてくれる・・・・・・。 「ね。男でも、わたしのこと本当に好きでいられる?」 そんな言葉は愚問だといわんばかりにアッテンボローの髪に指を入れて、愛しそうに撫でる。やさしい眸が アッテンボローを包んでくれる。 額に、ほほに、瞼に、唇に。 やさしいキスをしてぎゅっと抱き寄せてくれる。それがすべてでいいのではないかとアッテンボローは思う。 なんとしてでも、フレデリカにもう一度本当の笑顔を取り戻させたい。 なんとしてでも、もう一度ヤンにばかだねってしかられたい。 かなうことならばあの夫婦とまた与太ばなしをしながら、酒を酌み交わしたい・・・・・・。 ユリアンだけではない。 ヤンが目覚めるのは、みなの願いであり希望であった。 「提督を未亡人なんかにしませんから。小生。」 いつの間にか抱きしめられて眸に涙がたまった。 オリビエ・ポプランのいない世界? アッテンボローにはそんな世界は必要なかった。 「当たり前だ。ずっと側にいろ。コンマ一秒でもわたしのこと、目を離すんじゃないぞ。絶対だからな。」 何度はぐれても。 何度行き違うことがあったとしても。 オリビエ・ポプランがいない世界などアッテンボローにはいらない。 ポプランに言わせればおそらくダスティ・アッテンボロー(・ポプラン)もいない世界など彼にも必要ないのだと 思う。聞くまでもなく唇を重ねた。 涙の理由をポプランはきかなかったけれど。 確かにいった言葉は、「愛しています。提督。あなたが思っている以上に愛しているんです。」 奇妙なふたりだったことであろう。 アッテンボローは突然男の体になるし、ポプランは今日一日の記憶をなくしてしまう。今までの記憶もなくして いる。 それでも。 重なりあう二人には隙間はなく、何も入り込む余地などなかった。 by りょう |