舞台裏・4
地球にユリアン・ミンツたちが到着したのは宇宙暦799年7月10日。 標高4000メートルのナム・ツォ湖水面に船を着水させて一行はここで体を高度に 慣れさせるために三日生活をする。 本当に頭痛はしないか、吐き気などはないかとオリビエ・ポプランは女性提督にくっついて 守護天使どころの騒ぎではなかった。 「え。大丈夫だけど。」 ダスティ・アッテンボロー・ポプラン夫人はユリアンが知っている限り風邪ひとつ引いたことがない。 であったときから健康そのものの。 ここにきても不調ではないらしい。 「そういえばアッテンボロー提督が寝込むって聞いたことがないですね。倒れたと いうお話もなくって。ご健康でいいですね。」 ユリアンはたずねてみた。 「うん。私は割合頑丈なんだ。二日酔いくらいしか頭痛は持ってない。」 幼少期はこれでもよく発熱したものだけどねとそばかすの美しい女性提督は微笑んだ。 「いついかなるときでもワイフの心配をするのが亭主の役割だろう。」 とアッテンボローの肩を抱き頭をいとしむようになでるポプラン。 すごくきれいな空の青だねえとアッテンボローはくっついている男にかまわず10歳にも満たない 少年のように無邪気な口調で自然の大いなる天蓋を指でさした。 青紫にも見える蒼穹の空。 「ハイネセンで見る空の色と少し違う気もする。・・・・・・ちょっとポエジーだな。」 そんなこといって。 「お前に詩心なぞあったっけ。」とポプランはからかった。 「うん。確かに私にはその素養はない。認める。芸術の心得はないんだ。」 提督は存在そのものが芸術的ですとイワン・コーネフが口を挟んだ。湖のちいさなさざなみを 眺めながら。 あ、俺が言おうとしたのにいとポプランはまた口を尖らせた。 事実だからいいじゃないかとコーネフはいい、そういうのは色男が言うものだとポプランはいう。 「色男さんにしてはいささか言葉が遅かったよな。」とイワン・コーネフ。 「ふん。おれは地に足をつけるってのは嫌いなんだ。なんかこの地球って星は気に食わない。」 とポプランはサンドベージュの地平を眺めて吐き捨てた。 もうホームシックなのかとからかわれている。 そういう喧騒から離れて「船長ご飯作っていい?」とアッテンボローはボリスに伺いを立てた。 おう。おねがいするとボリスがいうとアッテンボローはユリアンを伴って船の外、野外食の準備を はじめた。彼女の腹時計は実に正確なのである。 「そっか船で飯を食うと高度順化にならないものな。」とポプランはうなずき 「ダーリン。俺も手伝うから。」と語尾にハートマークがつくような能天気さで準備するアッテンボローに 張り付いた。 「まったく客のうちで一番上客は女性提督だ。見目も麗しければ食事の用意もしてくれる。 同盟政府の年金ももらえぬようだしうちの乗組員として高給で雇いたいぜ。」 ボリスはせっせと野営の準備をしているアッテンボローにくっついたポプランにはっきりと言う。 「ふむ。船長の仕事を手伝うのか。料理していいなら考えるな。私は年金がもらえぬ立場だし。 軍人として十年ほど働いたけれど何せ死んだことになっている。どこか金持ちの家でメイドか ハウス・キーパーでもしようか考えていたんだ。」 とまんざらうそではないことを彼女は言った。 「まあ。あんたは確実に食いはぐれそうもないな。」 「ありがとう。船長。金持ちの働き口を紹介してくれたらマージン払うよ。」 ほう、とボリス・コーネフは感心していう。 「これだけ有能で美人のお前さんは何の弱みがあってポプランみたいな三下(さんした)と 結婚したんだ。あいつは能がない男だし・・・・・・美人提督と釣り合いが悪い気がする。 脅迫されているのかな。」 純粋なる愛情の結果だとポプランが必死に訴えたけれど船長は聞く耳を持たない。 固形燃料とマシュンゴが集めたたきぎを使ってアッテンボローはさっさと火の用意をした。 「料理もしてもらえるなら俺の船で働いてほしい。賃金ははずもう。」 まさか地球でスカウトにあうとはアッテンボローも思わなかった。 俺は能無しじゃないぞとポプランはいうけれど。 「そんな女性提督に張り付いているお前さんが有能にはどうしても思えない。いっておくが 戦争じゃないから飛行機のりはいらないぞ。」船長の舌鋒は厳しい。 「ねえ。オリビエ。たきぎ足りないといけないから拾ってきて。」 とアッテンボローにキスを賜りポプランは「ダーリンのお願い事ならなんでもする。」 とイワン・コーネフを引っ張って木々を集め始めた。 ポプランいわく「飛行気乗りは役立たずなんだとよ。お前もぼやぼやしてるとほされるぞ。 相手はフェザーンの自由商人だ。従弟といっても免除してくれるわけがない。」 これを聞くとイワン・コーネフもあきらめて燃料となる乾いた木を集める作業に取り掛かった。 これをみてよしよしやっとみんな働き出したと船長はほくそえんだ。 船内食を屋外に運んだだけであるがユリアンとマシュンゴ、アッテンボローが臨時に作った キッチンとかまどでみな初日野営をした。 13日になるとボリス、ウィロック、マリネスクは船外に出す荷物を改めている。 「やっぱり空気が薄い感じはするね。それにちょっと寒い。」 アッテンボローが料理のひと段落終えて辺りを見回すと誰ともなしにつぶやいた。 ポプランがマフラーを出してアッテンボローの首に巻いてやった。 「あ。あったかい。オリビエ、やさしいね。」 こういう寒さは首から冷えるからなとポプランはいった。 「今は火のそばだからまだいいが離れるときこのセーターを腰に巻くんだぞ。お前は女だから 尻や腰が冷えるとだめだ。」と後ろのキャンプ用の椅子にあたたかそうなセーターを置いた。 「そんなもこもこしたもの腰に巻くの?なんだかもたつきそうだ。」 アッテンボローは料理の下ごしらえをしながらちらりとセーターを見て尋ねた。 「ここいらの野郎どもと違っておまえは女だからな。腰や尻の冷えを気にする年頃の。ちゃんと 温かくしておかないとだめなんだ。靴下も3枚はいて。足も冷える。寒気がしたらすぐに言うんだぞ。 風邪を引かせられないからな。」 過保護だなあとアッテンボローは小さく笑った。 本当だったら毛糸のパンツをはいてもいいくらいだぞとポプランはいう。 みなが笑うので「毛糸のパンツなんて冗談がきついよ。」と女性提督は亭主に文句を呈した。 「冗談なものか。俺が編み物さえできたら作っておくんだった。結構ここは冷えるもんな。 女は腰や尻を冷やしちゃいけないと美人の母上や姉ぎみたちに言われなかったか。腰や尻は 温める。女の基本だろ。」 いちいち尻というなとアッテンボローは作業に没頭することにした。 脈絡のない話で恐縮ですが。 「後方勤務の女性士官はスカートの場合もありましたけれどアッテンボロー提督や グリーンヒル大尉はいつもスラックスでしたね。」 イワン・コーネフが火の調整をしながらつぶやいた。 私は最前線だしねとアッテンボローは言い、「フレデリカにしてもうちの司令官の 副官だろう。彼女はいつも刺客や暗殺者に対応できるようブラスターを装備して 手放さなかった。ヤン・ウェンリーを身を挺して守る覚悟でそばにいたのさ。立派だよ。 フレデリカは。」 まあフレデリカ姫が賞賛に値するのはもちろんのこととちゃっかりアッテンボローに くっついて味見をしているポプランはいった。 「軍の制服、スカートはあったけど膝丈で景観がそれほどよろしかったとはいえないからな。 もしろ尻のラインがくっきり見えるスラックスに俺は一票・・・・・・。」 お前って本当、実のないことをよく考えるよなとイワン・コーネフがあきれた口調で言う。 実がないことでもないぞとポプランは言い切る。 「女の尻は重要な要因だ。美人のな。俺の女房の尻は宇宙一だな。」 ・・・・・・挙句は尻なのかとアッテンボローは亭主をにらんだ。 そんな怖い顔しちゃだめとポプランは観客関係なしにアッテンボローに濃厚な抱擁と接吻。 観客たちもいまさらそれを見たところで「はじまったな。」とコーネフ船長がもらして 後はユリアンとイワン・コーネフ、マシュンゴが食事の仕上げをした。 空気が薄いところで口ふさぐなとアッテンボローは怒り、それだけの元気があれば 大丈夫かなとポプランは微笑んだ。 大丈夫に決まってるだろと顔を真っ赤にしてアッテンボローが反論をした。 その元気のよさにハートの撃墜王殿はますますにこやかになる。 「うん。俺の奥さんは健康そうだ。よかった。よかった。」 一同は思う。 どこへ行ってもこの二人はこういう感じなんだろうなと。 そして青年は思う。 それも悪くないと。 アッテンボローを捨てるポプランなど見たくないし、ポプランを飽きるアッテンボローも見たくない。 この二人が仲がよすぎて実際ため息をつくこともあるけれど・・・・・・ユリアンは二人の温度が 心地よく感じるのである。 ある懐かしさ・・・・・・イゼルローン要塞で過ごした最前線での、それでも和やかな時間をこの二人から 発する何かで感じる。思い出せる。そして戦争が終わったこれからも、きっとともに生きる仲間の息吹を 感じる・・・・・・。青年はこの感触が嫌いではなかった。 野営をしつつ三日このナム・ツォ湖畔で過ごす一行。 地球教本部ではあまりよい食事が期待できないからいまのうちにまともなものを食べておこうと ボリス・コーネフ船長は言った。 うまいものといっても船内食のアレンジだけどとアッテンボローは恥じ入るのであるがなぜか 彼女が手間をかけるとありきたりの食料でも馳走になるのでみな食事時間を楽しみにしていた。 地球教本部のあるカンチェンジュンガまでは車で行く。 事務長のマリネスクと航海士ウィロックはいつでも船を出せるようにナム・ツォ湖畔で待機する ことになった。 ボリス・コーネフは三日目の出発の日に車にさまざまな荷物を積み上げていく。 「船長、荷物が多いね。何か手伝おうか。」 アッテンボローはボリス・コーネフのことを船長と呼びイワン・コーネフを「コーネフ」と呼び分けていた。 「女性提督はよく気がつくいい女だ。でも女性の力を借りるには及ばない。従弟とマシュンゴが いるからな。・・・・・・それに引き換え、亭主は役に立たない男だ。戦後何を生業にしてこの美しい 嫁を食わせていくつもりだ。え。色男さんよ。」 アッテンボローにぴったりとくっついているポプランはボリス・コーネフのいうことなど意に介さない。 口笛を吹きさりげなく積み上げられた荷物を見た。 ・・・・・・銀塊じゃないかとポプランはつぶやいた。 ああ、盗むなよと船長は言った。 それほど手癖は悪くないぞとポプランは言い返す。 「銀塊なんて何に使うんだ。船長。」 アッテンボローは興味でたずねた。 地球教というところでは「貨幣よりも案外そっちのほうが喜捨物として喜ばれるのさ。あるのと ないのとではまあ少しばかり違うものだ。ささやかではあるが持っておくに越したことはない。」 コーネフ船長は淡々と答える。幾度も地球へ巡礼者を運んだ経験上そういうところに気が回る。 ふむふむ。 宗教といえど人が集まり宿を借りるのだから心づけは必要だよなとアッテンボローは感心した。 「なあ。コーネフ船長よ。銀塊少し売ってくれないか。」 アッテンボローの隣でポプランは口出しした。 お前さんの喜捨物でもあるから別に売らないとは言わないがと船長は不思議がる。 ポプランは船長の言い値で銀塊を買った。 やっぱりさ。 「地獄の沙汰も金次第だからな。何かの便宜を払ってもらうには交換できるものを用意しなくちゃ。」 とポプランはいって喜捨物である銀塊を自分の荷物に入れた。 せこい男だなとコーネフ船長はいいポプランは何事にも用意は万端でないとなと洒脱に ウィンクをした。 「どうせ本部にいったら等分してお前さんたちに配る予定だったんだがまあ買いたいと いうものを売らない手はないよな。」 とコーネフ船長はリストの数値を書き換えた。帳尻が合わないことが気持ち悪いらしい。 アッテンボローはなぜ今そんなものをポプランが買ったのかわからないが・・・・・・。 まあ頭の悪い男じゃないことは信用しているので口出しせず見守った。 「あとは宇宙食と薬品程度だな。」イワン・コーネフがテント用品をマシュンゴと運んできて 車に積んだ。 「カンチェンジュンガまでの道は悪路だし高度も高くなる。無理に一日で行くより一泊途中で 野営をして交代で車を運転すればいい。頭数はそろっているからな。」 船長は数えた。 ユリアン、マシュンゴ、イワン・コーネフ、女性提督、その付随品。 「俺を入れて6人だな。」 おい。 「俺を付随品扱いするなよ。まったく。コーネフって名前のつく男は口が悪いことこの上ないぜ。」 ポプランが不平を言うと鼻を鳴らして船長が言った。「じゃあ、女性提督の付録。」 ボリス・コーネフとオリビエ・ポプランの相性はさほどよくないらしい。 「でも船長はオリビエをからかうのは好きらしいな。」 アッテンボローは笑う。「うるさいなら無視すればいいのに。いちいちあいつを小ばかにするから あいつも相手になってる。」 イワン・コーネフは「ポプランはさびしがりですからね。かまってくれる大人が大好きなんでしょう。」 といってマシュンゴとともに荷物がずれないようにロープできっちりと固定した。 地球教本部のあるカンチェンジュンガまで350キロ。およそ実質12時間のドライブ。 「アッテンボロー提督って車運転できましたっけ。」 とイワン・コーネフが失礼なことを聞いてきた。「む。できるよ。しかもうまいんだぞ。」 女性提督はいった。 アスターテ会戦戦没者慰霊祭会場で当時の国家元首ヨブ・トリューニヒトを弾劾した ジェシカ・エドワーズを憂国騎士団から車で助けたのはヤンではない。 アッテンボローである。 ナム・ツォ湖畔での野営の後片付けを手伝っていたユリアンが戻ってきて 「提督は車の運転はお上手ですよ。」と弁護した。 ちょっとばかりスピード狂ですけどねと、とこしゃくにも付け加えた。 「ダスティは運転しちゃだめだ。」とポプランははっきりいった。 「ユリアンもだめだぞ。」とポプランをおもちゃにしていた船長も言う。 だめだと断言された二人はそれぞれなぜかと理由を聞き返した。 ポプランいわく。「運転できる人間は4人もいれば十分。こんな山道無理に運転しなくていい。」 コーネフ船長いわく。「アッテンボロー提督とユリアンにはうまい飯の準備を頼みたい。」 なんだかなとアッテンボローとユリアンは顔を見合わせて苦笑した。 「船長の言うことはともかくオリビエのいうことは過保護なんだよな。」 と靴下を三枚履かされたアッテンボローはポプランの額に人差し指を当てた。 かわいい自分のワイフに。 「かわいい自分のワイフに負担はかけたくない。・・・・・・俺の気持ちわかってるだろう。」 ポプランは口をへの字にした。 うん、まあねとアッテンボローはポプランの頬に軽く唇を当てた。 「船長は紳士じゃないが俺はいたって紳士でフェミニストだから地上だろうが宇宙だろうが 俺が運転できるときは俺がするから。男が5人もいればレディにハンドルを持たせないのが 普通だ。」 そうかなあとアッテンボローは考えつつ。「なんだか何もできない姫君の扱いなんだな。」 そう唇を尖らせると。 「いやあの味気ない宇宙食でもこれほどの美人が手を加えたとなるとうまみがます。 俺は女性提督さえその気になったらいつでもうちの船のコックをお願いするぜ。 あんたの作った船の食事は実に美味かった。ユリアンでもたいしたもんだと思っていたが やはり女性提督のほうがいい。雇うときは高給で雇うからいつでもいってくれよ。」 コーネフ船長はいたくアッテンボローをお気に召したご様子である。 高給もいいけれどとアッテンボローはいう。「うちの亭主もセットに雇ってくれるならいつでも 働くよ。船長。」 オリビエ・ポプランにはてさて使い道があるかなとじろりと船長はポプランを見て意地悪な 笑みを漏らした。 いちいち気に食わないなあとポプランはいった。 気に入られても困ると船長ははっきり言うと。 「さてこれから日没までカンチェンジュンガに向かう。一番手の運転手は誰にする?」 と4本のくじをさっさとつくりユリアンとアッテンボロー以外に引かせた。 いよいよ総本山だなと女性提督は亜麻色の髪の青年に語りかけた。 「ええ。なにがでるのやらいささか不気味ですけれど。」 「大山鳴動して・・・・・・さて。出てくるねずみは何引きだろう。できればねずみじゃなく 虎くらい出てほしいよな。」 物騒なことを女性提督はいうので楽観的過ぎですよとユリアンは笑った。 「くじ運がいいのか悪いのかわからないけれど車の運転は久々だな。」とイワン・コーネフは 微笑んでいう。 一同は車に乗り込み、目的の地に向かって出発をした・・・・・・。 宇宙暦799年7月13日のことである。 by りょう 本当はオットテールさんがいるはずですが車に乗り切らないので割愛。 出てきても殺されちゃうので別の場面に出せたらいいなと。ナポレオン・アントワーヌ・オットテールさん。 名前のある人はあまり死なせたくないんです。あ、もちろんイワン・コーネフはこのたびでも死なないですから。 |