91・ベクトル
帝国軍との和平交渉、貿易その他の外交をになう仕事をアッテンボローが務めてはや1年。
よく自分のような人間でもなんとかこなせていると思うが自他とも認める優秀な首席秘書官が言うには
「部下のできがいいと上司は楽でいいはずだ」
・・・はいはい、そうでしょうとも。実に有能な首席秘書官様のおかげでございます。
アッテンボローが自分で珈琲を入れるついでに首席秘書官に恭しく珈琲を捧げる。
「閣下、他人が見れば誤解をする。珈琲くらい自分で入れる」
その口調自体なにも知らない人物が見ればアッテンボローが部下に見えるに決まっている。
まぁここのオフィスにいる人間はラオ、スーン・スールなどもとからの仲間であったので、
別に変わった光景とも思わない。
当面はアッテンボローもこの仕事を続けねばならない。
この事務所の中では黒幕は誰であるかなどいわずもがな。
しかしそれすらアッテンボローには居心地がよい。
なにせ同盟政府はバーラト星域での自治権は認められているものの、到底生まれたばかりの
赤ん坊とかわらない。特出した産業もなければ長い戦争で人材ともに物資が決定的に
不足している。およそ政治といってもフェザーンの後ろ盾がなければ破綻をきたすのが
バーラト星域の自治権である。
アッテンボローたちは元軍人であることであまり民衆によい印象を持たれていないことも知っているので、
長らく祭りごとに参じるつもりはない。
それでもある程度の土台となる布石は遺しておこうと元・イゼルローン共和政府組は覚悟しているのだ。
近くアッテンボローらは銀河帝国帝都フェザーンへ赴くことになっている。
移動時間を考えれば今大変多忙ということになる。
しかし異変が起こった。
「なんだ?スール。額から汗がにじみ出ているが、風邪か」
キャゼルヌが書類を提出してきた補佐官を務めるスーン・スールに尋ねた。彼は顔色も
悪く明らかに具合が良くないようだ。
「心配いりません。もう一時間前に薬を飲んでいます。腹の具合が悪いだけです」
それを聞いたアッテンボローが怒鳴った。
「馬鹿者。それじゃぁ結局一時間薬が効いてないということだろうに。医者に行け」
それがよかろうとキャゼルヌが促そうとしたとたんにスールはその場で膝から崩れ落ちた。
床に倒れ、かなり痛いようで苦痛に黙って耐えている。
「ただ事じゃないぞ」
アッテンボローはあまりにスールが腹を押さえるので試しに横腹を抑えてみる。
飛び上がらんばかりの痛みを訴えたのでこれは人類に退化した器官の炎症では
ないかと考えた。
なぜそう思うかといえば、彼の姉の一人がその病気にかかったときに対応できる
医者がほとんどいないことを子供心に覚えているのだ。父親がジャーナリストで
つてがなければ姉は死んでいただろう。
「なんだ?その虫垂炎というのは?」
キャゼルヌが知らないのはもっともでこの時代の人類には、99%、虫垂が退化している。
ためにその器官の名前すら知らない。ゆえに対応できる医者も数が少ないのである。
彼らは地球をすてて約800年後の人類である。太古の昔には20分程度の簡単な切除手術で
なおった炎症もこの時代では『奇病』となっている。
キャゼルヌはそれを聞くと思い出したように電話をかけた。その会話はすぐに終わり
ラオにこの住所の病院へスールを連れていくように言った。アッテンボローがその医者の
名前を尋ねると、当然のようにドクター・ミキ・マクレインがキャゼルヌの口から出てきた。
結局ラオとアッテンボローがビルの下の車までスールを運びメモされた住所まで車を走らせた。
ついたところは昔のシルバーブリッジ街の近くの一軒家。
『マクレイン・クリニック』
「こんな施設で手術なんてできるのか?」
失敬と思う間もなかった。
車を降りてアッテンボローがドアベルを押そうとしたときには扉が開き看護士らしき人物が
4名ストレッチャーを押して飛び出してきた。
一人は婦長という感じの貫録のある黒人女性。
もう一人はまだ幼さの残るカリンくらいの年齢の女性。
そしてこれもまだ青年と呼べる男性看護士と
アッテンボローくらいの年齢の男の看護士。
その後に、白衣の背の低い女性がさっそうと歩いて出てきた。
「アグネス、患者のカルテを作って。コーネリア、バイタル測って。アーネストは、クランケを
第一オペ室に運んで頂戴。ドクター・コリンズ準備にかかってください。付添の方、こちらへ」
早口だが、かつ舌のよい口調で女医は言った。アッテンボローが彼女の後を追って、病院内にはいる。
外観とはちがい中は立派な病院施設になっている。
「アッヘかも知れないとなぜそう思われました」
「アッへ?」
「ごめんなさい。虫垂炎です」
アッテンボローは自分の姉が幼少時に同じように腹痛を催しいたみかたもそれに似ていたこと、
寝かせたときに左の胃の下のあたりを押すと飛び上がらんばかりに患者が痛がったことなどを伝えた。
彼女はそれを聞くと彼を待合室で待たせて、自分は手術室へ消えた。待合室に行くと、ラオが
かっぷくのよい中年黒人女性から聞かれたことをこたえている。
面倒なことにならなければいいのだが果してあの女医で大丈夫なのだろうか?
キャゼルヌはあの女医を信頼しているが、盲腸がいまの時代厄介な病気に
なっていることを思うとアッテンボローはじっと黙って様子を見るしかなかった。
看護士達がスールを乗せたストレッチャーを押してオペ室から出てきたのはあの女医が
その部屋にはいって20分程という短い時間だった。アッテンボローと、ラオは顔を見合わせて
医者が出てくるのを待った。
ドクター・マクレインが、アッテンボローとラオに手術の成功を伝えた。
移動盲腸だと彼女は言った。
「虫垂炎の痛点をミスター・アッテンボローは確認されましたが、虫垂自体現代の人間はもっていません。
横に寝かせて同じ痛点を押してもいたがらない。これは虫垂の炎症ではありません。
それですぐに処置ができました。1週間程安静にしていただきたいのです。患者の休暇は取れますか?」
ええ、とアッテンボロー。
「今回は虫垂を切除する必要はありませんでした。盲腸自体がほぼ存在しないのに移動盲腸とは
患者はかなり運が悪いというか。でもこれで再発はありません。いずれにせよ患者をうちで
お預かりしましょう。うちは診療所ですが入院施設もあります」
「それは助かります。うちの姉の時も大変でした。先生はお若いのに名医でいらっしゃる。
感謝します。患者をよろしくお願いいたします」
彼女はわかりましたと、きっぱり言った。
若い女性看護士に先生、と呼ばれて、彼女はそちらに顔を向けて、歩いていった。
「ご安心ください。うちの先生は若くてあの調子ですが腕はそこいらの医者の中で一番ですよ。
今までに外科の執刀だけでも5000以上こなしている医者です」
ドクター・コリンズだったか。もう一人の医者がアッテンボローに話しかけた。茶色の髪をした男である。
「元は軍医をされていましたがやめられた後、民間の医者になったそうです。民間の医者と言っても
ハイネセンもクーデターだの、いろいろありましたから先生は野戦病院で働いていたようなものです。
普通の開業医とは違いますよ。患者さんは大丈夫です。ご安心なさってください」
何かの力の作用をアッテンボローは感じる。
ベクトル。
彼の目が追うのは看護士に的確な指示を出して毅然としているあの女医。
ミキ・マクレイン。
錯覚が確かな方向に確信になっていく。ただの錯覚だと思っていた。
2、3日もすれば、頭からはなれると思ったのに。忘れていると思ったのに。
恋・・・・・・。
まさか。
「おーい。事務所閉めてきたぞ。アッテンボロー」
キャゼルヌがやって来た。
「どうだ?ミキ?スールはどれくらいかかる?」
「長くて1週間ですね。うちで入院してもらいます。傷がふさがらないといけないし、
腸内のガスがでるようにならないとね」
ミキ・マクレインは幼い顔に似合わずしっかりとした声で言う。
「なんだ?腸内のガスって?」
「屁です」
ミキはあっさりといった。
「お腹をあけたんですから、空気も入っていますしね。大の大人がそんなに顔を
しかめることもないでしょう」
「・・・・・・ いや、そうじゃない。お前、いい年齢の女性なんだから、びろうな話は
慎んだほうがいいぞ。面食らう男がいるからな」
「びろうな話ができないで医者ができますか。一週間以内に放屁させないと
退院はさせませんよ」
二人の会話を聞いてアッテンボローが笑った。
キャゼルヌはしめたと思ってこう切り出した。
「閣下。このお医者様は閣下の部下の命の恩人です。どうでしょう?
しゃちこ張った席はなんですけれどもお食事会などどうでしょう。
先生をお誘いしてはどうでしょうか。それくらいはお礼の気持ちということで
よいと思われますけれども。拙宅でよければ、いつでもどうぞ・・・・・・。」
アッテンボローは生前のヤンがよくこの先輩のことを悪魔、悪魔と言っていたが
それが今、彼にもよく分かった。
これではデートに誘えと言っているようなものではないか。
「先輩。若い閣下をいじめて楽しそうですね。楽しそうだわ。」
ミキがにんまりと笑った。
「仲間を多くなくしたからな。お前もそうだろう?ミキ。たまにはうちに来て酒でも飲んではなそうや」
草葉の陰でヤンもシェーンコップもお前とアッテンボローが酒を酌み交わすのを喜ぶに違いないさ。
これも何かの縁。うちに遊びに来いよ。久しぶりに。オルタンスも喜ぶ」
ミキはアッテンボローの顔を見た。
アッテンボローも、彼女の顔を見た。
彼女がどう思ったのかは知らないが彼の方は、このベクトルが
まっすぐに錯覚ではない方向に向かっていることを思い知る。
by りょう
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