90・古い映画館



アッテンボローがミキのクリニックを訪れたときにはもう婦長の

アグネスがいただけだった。女医は久々の休日をとったらしく今夜は

診察を終えると早くに帰ったとアグネスは教えてくれた。




「映画館・・・・・・って。古い、街のなかにあるあそこへ彼女はいったの

かい」


アッテンボローはやや驚いた。






この時代自宅で立体映像で映画を楽しむのが主流。映画観賞とは

かなり古典的なことであってげんにハイネセンという巨大な都市にも

古い小さな映画館が一件、ごく少ないオールドマニアのために残って

いるという現状である。




「ええ、先生はここで開業されてからたまに足を運ばれます」

「そんな趣味があったとは聞いたことがなかったよ」

やはり・・・・・・まだ自分は彼女の何もかもををしってるわけでは

ないのだなとアッテンボローは苦笑した。

2人で会うときにそんな会話はでたことがない。

アグネスは言った。




「今からならまだ、上映時間には間に合うようですよ。8時開演と言って

おいででした。閣下も一度、ご覧になってみてはいかがですか」




アグネス・ブライアン。

アーリー・アフリカン系の恰幅のよい女性で戦時中、軍属にあったとき

彼女はミキの部下でもあった。落ち着きがあり心地の良いアルトの声

で話す。




「今から行ってみようかな。・・・・・・でも私は邪魔じゃないかな」

それ以上はアグネスは言わなかった。

青年外交官は彼女に礼を述べてクリニックを後にした。







彼女は小さな映画館のロビーでチケットを買ってまさに今、場内に

入ろうとしているところであった。ひとは少なく老夫婦が一組と、老人が1人。

年配の女性が2人というところ。

アッテンボローは、息を飲んで勇気を振り絞って彼女に声をかけた。







「ミキ!」

彼女は白い顔をしていた。

このひとつきほど彼女は休日を返上してアッテンボローの手術、術後の

診察、治療、他の患者の手術等をこなしていたのでよほど疲れて

いるのだろうと思った。

そして顔に表情がなかった。




「どうしたの。」

その声は責める声でもなく、特に感情はなかった。

抑揚がなかった。

彼は思いきって言った。










「実は、話があったんだ。・・・・・・謝りたくて。おれが馬鹿だった。

もう二度と会わないなんてできもしないことを言って・・・・・・君を

テロから守りたかった。おれからはなれていれば君は安全だと思った。

でも君の気持ちも考えずに別れを切り出すなんておれが馬鹿だった。

本当は君のことしか見えなくて。君しかいなくて・・・・・・君しかいなくて、

君がいないと、君がそばにいてくれないと・・・・・・」




「なんとなくわかってたわ。」

え?と素っ頓狂な声を出したアッテンボロー。

ミキは特に表情を崩すこともなく言う。


「もう映画が始まるわ。話は後にしてくださるかしら」






アッテンボローは戸惑う。

怒っているのだろうか・・・・・・。

やはり許してはもらえぬのだろうか。

それだけ彼女を傷つけたのだ。

彼は頷いて自分の分のチケットを買って彼女の後を追った。




「一緒に見てもいいかい?」

彼女は紙コップのコーヒーをのんでいて軽く頷いただけで目は

白いスクリーンを見つめている。

やがて映画が始まる。




この作品は30年ほど昔の映画のリバイバルでオールドファン用に

映画用フィルムでも撮影されていた。アッテンボローは昔父親と姉達と

家庭用立体映像でこの映画は見ていた。シニカルなコメディで子供の

ころ笑い転げたり意味がまだわからなかったりしながら家族で

楽しく見た映画である。



懐かしさを僅かに感じて彼はミキもこの映画が好きだったのだろうかと

彼女の横顔を見た。










こんな悲しい涙を見たのは初めてだった。

彼女の眸からは止めどなく涙がこぼれだし彼女の膝に落ちていった。

彼女は声も出さずに泣いていた。







驚きながら、そして彼は目を伏せた。

映画の最中、小さな笑い声が小さな劇場でさざめいていても

ミキ・マクレイン1人、スクリーンのもっと遥か遠くを見つめて

泣いていた。













こんな悲しい涙を見たのは、彼は生まれて初めてだった・・・・・・

映画が終わってみなが席を立ってからミキは自分のハンカチで

目元をぬぐってやっと席を立った。

古い映画館を出て春まだ浅い夜の街を二人、歩いた。






「おかしいでしょ・・・・・・何だか習慣になっちゃって。みんなの前で

泣いちゃうと心配かけちゃうから。ここなら誰にも見つからないと

おもって・・・・・・どうしても泣きたくなるとここへ来ちゃう。・・・・・・私、

泣き出すと止まらないから・・・・・・変でしょ。笑ってもいいわよ。

いい大人なのにね。」




アッテンボローは笑えない。

「笑えないけど、変だ」そういうのがやっとであった。

「認めるわ。だから1人できてたの、誰にも内緒でね・・・・・・私だけの

秘密基地だったんだけど。昔家族でよく見た映画があそこでかかるの。

懐かしくて・・・・・・こらえられなくなって泣いちゃう。」


ミキはやっと小さく笑った。



アッテンボローは路上で彼女を抱きしめて言った。

「今度からはおれの前でいくらでも泣いていいから・・・・・・あんな

悲しい涙を流すなよ・・・・・・おれじゃ役不足かもしれない。未熟

でだめな男だけどもう絶対側にいるから。・・・・・・ごめん・・・・・・」


抱きすくめられて突き放すこともできただろうがミキはそうは

しなかった。



「・・・・・・そうね。そうしてもいいならそうする」


「そうしてくれよ。おれから、離れないでくれ・・・・・・」

彼女が求めるならば何度でも謝ろう。

何度でも愛の言葉を語ろう。

アッテンボローにはミキが必要だった。

本当はミキにもアッテンボローが必要だった・・・・・・。







「ごめん。ごめん。・・・・・・もっとミキのこと守れるようになる。

もう手を離したりしない。君が好きだ」


ミキは、彼の肩越しに空の星を見つめてふふっと笑った。

アッテンボローは彼女の顔を見つめる。彼女はさっきとは違う表情で

微笑んでいた。

けれども瞳から涙がこぼれていく。




「嬉しいときにも、涙って、でちゃうね。私、ずっと泣いちゃうかも。

あなた、困るわよ。きっと。」私は執念深い女なんですからねと

震える声で囁いた。




アッテンボローは彼女にキスをした。

そして優しく抱きしめた。


「いいよ。そばいにいるから。明日の朝も、昼も、晩も。約束だから。

もう離さないと約束したのだから。一生おれを困らせてくれ。」










2人が出会って、半年余り。

惹かれあうそのままにさりげなく2人は一緒に暮らしだした。

彼女の涙はいまや、彼がキスで受け止める。



by りょう
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