56・ハルシオン
「おれの子を産んでみるか。ミキ・マクレイン」
女医は呆れた。
彼女は突然独り住まいの彼女の自宅にやってきてあがりこんだ男をにらみつける。
もっともこの男は連絡などよこさず来る。
そしてひとの家の酒を散々飲む。
過去の薔薇の騎士連隊13代連隊長ワルター・フォン・シェーンコップがいった言葉を
きいて2秒だけ黙った。
そして、答えた。
「・・・・・・注射でも打っておく。それとも薬が必要なの。さて妄想にきくくすりがあった
かしら。」
彼女はさして面白くなさげにいった。シェーンコップも自分が酔いに任せて馬鹿な
ことを口走っていることは知っていた。ただ、この友人にはそんな馬鹿を赦してもら
える「甘え」は彼の中に確実にあった。
ワルター・フォン・シェーンコップという男が戯れあえる女友達は宇宙ひろしといえど
この女しかいない。
「おれに娘がいるそうだよ。カーテローゼ・フォン・クロイツェル。バーミリオン会戦の
前に手紙が届いた。15歳。美人だ」
ミキ・マクレインは当たり前の質問をした。
「写真でもはいっていたの」
シェーンコップは自信満々にしかも余裕たっぷりに言った。
しかも当たり前のことのように。
「おれに似れば美人に決まっているし母親に似てもおれは女の趣味がいい。どちらに
にても美人に決まっている。顔なぞみなくともわかる。」
女医はこの男、最悪と呆れている。
まぁ、なんだとシェーンコップ。
「そんなよもやま話をしにきたのではないんだ。お前さんに頼みがあってな。重要な
頼みごとだ」
「何よ。あのね。あなたね。うちに来たら酒を象のように飲むんだから一度くらい殊勝
に手土産のひとつももってきなさい。浮世の義理というものを知らなさ過ぎるわよ。」
ミキは剣呑な女ではないがこの男相手だと口が蓮っ葉な口調になる。
女医の言葉をさらりと聞き流しシェーンコップは言った。女のこんな口調にはなれて
いる。
「使い走りを頼みたい」
一体医者が暇だと思っているのかとミキ・マクレイン。
だまって話を聞けとシェーンコップ。
今はヤン・ウェンリーも蜜月を楽しく過ごしている。しかしこの政局で今後ヤン・ウェンリー
が同盟政府あるいはローエングラム王朝にとって諸刃の刃にならないとも限らない。
そのために常に宙ヘ帰れるようにシェーンコップは手を打っているという。
「おれたちは政府に顔を知られすぎている。ヤン・ウェンリーのシンパだとね。しかし
お前さんのポジションはいいところにいる。ヤン・ウェンリーの友人でありながらかつ
幕僚に父親を持つ。しかしおそらく政府からはノーマークだ。結婚式にも顔を見せな
かった。権力にヤン・ウェンリーを取り殺されたくなければ、おれの味方をするんだな」
「結婚式には呼ばれていたけれど、仕事でいけなかっただけよ」
女医はきっとシェーンコップを見据えていった。
「そこが、いいんだ」
それくらいで動じる男ではない。
現在ヤン・ウェンリー、ヤン夫人、そしてかつての幕僚には帝国軍の監視がついている。
勿論シェーンコップにも尾行がついている。
しかしこの男が女の元に転がり込むのは珍しいことではないのでミキ・マクレインはかっ
こうのカムフラージュになる。
美人の女医と色事師が一夜を過ごして何もないはずはないと世間は見る。
だが実際には何も、ない。
「あなたの緊急連絡先を、ヤン夫人に言付けておけばいいのね」
「そういうことだ」
「わかった。私にとって彼は大切な友人だもの。喜んで使い走りでもさせていただく。
本当に人を使うのが上手よね。あなたってひとは」
「付け加えるならばとくに女性を扱うのが、上手なはずだ」
鷹揚にシェーンコップは酒をあおりながら言う。
「言ってなさい。フォン・シェーンコップ」
ミキはあびるようにひとの家で酒を飲み干していく図々しい男に一別もしないで
自分の所用にいそしんでいた。
相手にしてられない。彼女は忙しい。
「あなたはここで寝なさい。私は自分の部屋で寝るから。」
「いわれなくともそうする。」
あ、そ。お休みなさいとミキは一言男の広い背中に向かって呟き、階段を上った。
この2人に恋愛感情が発生しなかったのは事実。
ミキ・マクレインは亡くした夫を愛し続けていたしワルター・フォン・シェーンコップは
ジョン・マクレインが愛した女性とラブ・アフェアーをする気は全く無かった。
しかも彼女を慕っている男がシェーンコップの部下にいる・・・・・・。
こうなると長年の奇妙な友人関係がこの2人を結んでいた。
ミキはたまに眠れない夜にハルシオンを飲む。
睡眠導入剤を。
浅い眠りの中。明け方、居間のソファで眠っていたはずの友人は姿を消していた。
ああ、奴はまた飲み逃げをしたなと開いたボトルを片づけてミキは今日も医者として
生きる。
これが、僚友との長き別れになるとは 2人は考えもしなかった。
by りょう
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