43・パンドラの箱




「なるほど。新聞でよく見かけるのは、お前さんの風刺画だったんだな。

らしいといえば、らしいよな。」



青年外交官は、新進気鋭画家であるもと僚友、カスパー・リンツ氏の数々の作品を面白そうに

眺めながら、その若き芸術家にごく簡単な感想を述べた。彼はアートの分野に疎い。

文化的なこととは無縁で育ってきている。せいぜい地図をかくのが関の山。

会場には思う以上の客がきておりハイネセンも捨てたものではないと青年外交官殿は

また政治的視点に立つ。



「こういう絵って案外簡単そうでデッサン力がいるんでしょう。デフォルメした絵って難しいって聞くわ。

私は芸術のセンスは全くないけれど面白いのね。眺めていて飽きないもの。」

彼女も軍人の家庭で育ちあまり文化的ではない生活を送っている。医学や化学、人間をあいてに

生きている彼女。



先ほどの強盗一味逮捕劇の主演女優ドクター・ミキ・マクレインも、その大きな眸で見つめると

絵に穴が開くのではないかというくらい一生懸命に一点一点を丹念に観賞している。

「カリカチュア(風刺画)風情がと酷評もされますがね。これで飯が食えるので私は助かってます。」

と、リンツは言った。



「お前は絵がうまかったらしいな。俺は見たことないけれどユリアンが言ってた。たいしたもんだよな。

平和的な分野で飯が食えるのは結構なことだ。」



女医も外交官も順々に画家の絵を愉しみ彼女の方はもう一度見たい作品があるといって

外交官と画家を残して観覧している人々のなかへ入っていった。小さな彼女はするりと人の中に

はいると見失う。人の山に埋もれるのだ。

アッテンボローは消えてしまった彼女の姿を惜しむようにその方向を見つめていた。



画家はアッテンボローを自分のテーブルに案内してアシスタントらしい女性に珈琲を頼んだ。

女性はショート・ボブの赤毛で白い肌にそばかすがあり、際立つ美形とは言えないが

聡明さを感じる。物言いや所作、表情がじつに柔らかく上品であった。香りの高い珈琲が運ばれて、

アッテンボローとリンツは久々の歓談を交わした。





『薔薇の騎士連隊』で生き残った数少ない僚友がカスパー・リンツその人である。



ライナー・ブルームハルトは若くしてヤンの命を護ろうと最後の最後まで戦った。

ワルター・フォン・シェーンコップは『美姫(ブリュンヒルト)』においてユリアン・ミンツに

すべてを託して最期を遂げた。



アッテンボローはだからこそ、ユリアンやヤン夫人の力になりたいと切に願って生きている。

それが遺されたものの務めだから。生きているものは死が訪れるまで生き続ける。

彼はヤン・ウェンリーが遺した民主共和という種を苗にする仕事をしている。まだまだ冬の時代は

過ぎないであろう。けれど銀河帝国の安泰なる独裁政治治世の元ではなく、民衆が政治を

監視する国家の一市民でありたいとアッテンボローは思っている。



そんな遠くはない昔のことに思いをはせていると、シニカルでリアリストな目前の男が

愉快そうに言った。

「しかしあのミキ・マクレインと独身主義者のダスティ・アッテンボロー提督が恋仲だとは。

なかなかおもしろいですよ。えにしとは不思議なものですね。しかしなかなかやりますな。閣下。」



「ばか言うなよ。おれたちはただの友人同士の関係だ。・・・・・・へんな勘繰りは困る。」

口にしている珈琲を吹きださないように、アッテンボローは苦心した。いい大人が

そんな真似はできない。

「おやおや。閣下はミキ・マクレインに恋をしていると私などは確信したのですけれどね。

眼鏡違いですかな。」



リンツは、さらりと言ってのけた。

ひとの恋愛事情にくちばしを挟むのは『薔薇の騎士連隊』の悪しき風習だ。

アッテンボローは思う。多分13代連隊長が一番、悪い。諸悪の根源だ。あいつが

地獄で美女をはべらせにやついているのがみてとれる。稀代の悪女とシェーンコップ。

つりあいもよい。



「・・・・・・そりゃあ、おれは彼女が好きだ。お前さんに今更隠したところで仕方ないさ。

だがな、あくまで片思いであって彼女には何も言うなよ。あの通り並外れた美人だし医師としての

才能も豊かだし・・・・・・気配りも十分できる立派な女性だ。おまけに面倒見がいいし気さく

だからおれがあいたいといえばあってはくれている。・・・・・・でもそれだけだからな。」



カスパー・リンツは重症だなと思いながら言う。アッテンボロー提督といえばシャープな印象があった

のだがこれではヤン・ウェンリーよりも恋愛には疎そうである。

よくまあそこまであの女医を誉めれるなと思うしそれが恋なんだといってやりたい気もした。



「それで十分でしょう。閣下だって暇で自分の自由になる時間ができたからって惚れてもいない女に

費やすことはなさらないでしょう。ミキ・マクレインもそういう人種です。あのひとは相手にならぬような

男に時間を使うほど親切じゃないですね。かれこれ12年みてますけど言い寄る男も多いから、男には

冷たいひとですよ。酔狂で閣下のお相手をしているようには見受けられないですねぇ。」



それに、と僚友は言葉を付け加えた。



「ミキ・マクレインという女性は男の言うことに殊勝に頭を下げる様なかわいいさはありません。

さっき、閣下に叱られて、しゅんとなったでしょう。私の記憶ではそんなしおらしさを見せたのは

彼女の前のご亭主の前だけですね。うちの先代なんかはよく足蹴にされてましたし。

彼女があなたに素直なのは彼女もあなたに恋していると私は思いますよ。ほぼ間違いない

でしょうね。」



リンツはうまそうに珈琲を飲み干した。すると先の女性が現れておかわりを促す。

柔らかい優しい声。リンツは彼女にしたがって2杯目の珈琲にありついた。


「お邪魔します。ね。やはり私は『パンドラの箱』って絵が好きだわ。リンツらしい、浪漫を感じさせる

皮肉が一杯で意地悪で素敵。」



うわさの女医がカスパー・リンツ画伯を褒めているのかけなしているのかわからない「散文的な」賛辞を

述べて2人のいるブースに加わった。

「ミルドレッド、ミリー、すまないがこの口と日頃の行いも悪いドクターにも君のうまい珈琲を

入れてやってくれないか。」

赤毛の女性はええと頷いて女医にも珈琲を用意した。






アシスタントを務めるミルドレッド・ジョーンズ嬢はカスパー・リンツの婚約者であり、

半年後には結婚をする予定になっていると2人の旧友に改めて紹介された。



「姉の知り合いで。ミリーはじつに気がつく女性でね。彼女がいなければ私もここまで

やってこれなかったでしょう。式にはお二人ともご招待しますよ。ぜひきてくださいね。

ご祝儀を持って。」



女医はおめでとうといって、ミルドレッドという名前の女性は聡明でいい女が多いのよね、とこれまた

散文的な物言いをして2人を祝福した。将来のリンツ夫人は微笑んでお礼を述べた。

アッテンボローも二人の結婚を祝福した。



「で、ミリー。私の長年の悪友のミキ先生が『パンドラの箱』を気に入られたそうだから、

我々の婚約を記念に贈呈しようと思うのだがどう思う。」

ミルドレッド・ジョーンズ嬢は柔らかなアルトの声で言った。

「あなたの絵です。あなたのなさりたいように。カスパー。」



28歳と聞くがはるかにミキ・マクレインよりも年長に見える。

そしてまた違った美しさがあった。灰色の眸は穏やかな暖かみのある色に見える。

フロイライン・ミルドレッドは麦わらを脱色したような色をした画伯の髪を撫でた。そういう

仕草すら上品に見える。青年外交官は隣の女医を見た。

両手にカップを持ち熱いけど美味しいわねと珈琲を飲んでいる姿はどう考えても

自分より年長の女性には見えない。

そこが彼は可愛いと思う。



「ミルドレッドが言うことにまず間違いはないので、贈呈しましょう。先生。」





ミキはびっくりして、とんでもないと恐縮した。



「何を言っているの。私は買わせていただきます。お二人の門出も近いしお祝いに。

いただくなんてよくないわ。リンツ。気持ちは嬉しいけれど、だめ。絶対だめよ。」



女医の方が泡を食って買うといってゆずらない。彼女はいまやリンツが白の一枚の絵の値段を

しっているのでおいそれといただくわけには行かないのである。ヘタをすると家が買える

値段がついているのだ。彼女はギャラリーで絵を見ているあいだにそんな会話を耳にしている。



「気に入ってくださるひとにもらわれるのが絵にとっては一番なのですよ。それともお気に召しませんか。

あの絵は。」

リンツの言葉にそうではないと、ミキ。

「ええと・・・・・・・。そうつまりこうよ。本音をいいましょう。」



彼女は、ひとつひとつ整理して何かを言おうとしているようだった。・・・・・・シェルロット・フィリスの

ほうが彼女よりも大人のように見えるときがある。アッテンボローはいろいろと言葉を選んでいる

女医をほほえましく見つめた。彼は恋に落ちている。そしてかなり重症だ。





「私は今仕事をもって何とか糊口をしのいでいるけれどいつ何時、働けなくなる日が

来るかも知れない。そうなると、私は国民年金だけでつつましく生きていくことになる

でしょう。今でもつましい暮らしをしているけど。」



リンツも一同もきょとんとした。

「はい、それで。」

促されてミキは続けた。とんでもない発言を・・・・・・。



「それでねリンツの絵はこれからどんどん高値がつくと思うから、食べるのに困ったときに

言い値で売れば私の老後も潤うでしょう。いつの世でも価値のある絵を高く買うブルジョアは

いますからね。いくら私が腹黒い女でも贈呈されたものをいやしくも売り飛ばして余生を送ろう

なんてできない。自分が買ったものなら両親の呵責もなく売り払えるものね。わかるでしょう。

リンツ。私はこれでも友人思いなの。友人の絵を売り飛ばせないわ。」





一同は沈黙した。



「・・・・・・いやな冗談を言いますなぁ。相変わらず。鳩尾にぐっとくるようなジョークですね。」

リンツがやっと口にした。口元が笑っている。

「あら違うわ」。

ミキは真面目に言った。



「本気よ。あなたにいまさら嘘をつくはずないでしょう。冗談でもないわ。初陣で

一緒に戦った仲間のくれた物を売るなんてさすがにできないわね。」

可愛い顔に全く似合わぬ辛らつなことを彼女は言う。隣で聞いているアッテンボローは



あいた口がふさがらない。シェーンコップが嫌うのはこういう理由かもしれないと彼は思う。

けれど青年外交官殿はそれすらも彼女の魅力に見えるので重態である。



「本気で言われるとますますいやですね。思えば先生らしい発言です。」

リンツは笑った。苦笑という分類の笑みだ。





「先生。あなたの人生設計の中には誰かともう一度結婚して亭主にやしなってもらうとか、

そういうプランはないのですか。あくまでも年金生活で1人で今後も暮らすのですか。」



ある意味仕返しのつもりでリンツは愉快そうに女医に言った。

アッテンボローはまたもぽかんとして2人のやり取りを見ている。

薔薇の騎士連隊のつわものを相手に女医はなんとも思わぬ無邪気さで対応している。



「たとえば外交官夫人になってそのサラリーでつましい老後を二人で、というお考えは

ないのですかな。」

カスパー・リンツはカップを口にして固有名詞を使わず「アッテンボロー夫人になって

養ってもらうほうが楽でしょう。」といっているのである。



ミキはアッテンボローを見て何か言おうとした。「私は・・・・・・。」





がその時彼女の携帯が鳴った。

急患である。


「ごめんなさい。閣下、急な仕事が入りました。また電話します。いいこと。カスパー・リンツ。

私はその絵が好きだから買いたいのよ。『パンドラの箱』に最後に残ったものが希望だからよ。

それくらいは私だって知っているわ。買いますからね。ではミス・ジョーンズ、ご機嫌よう。お二人とも

お幸せにね。招待状をを待っているわ。」





つむじ風のようにミキ・マクレインはその場を立ち去った。



「やれやれ。閣下、私はちょっと誤解していました。」

あっけにとられてぼんやりしているアッテンボローにリンツは言った。

「彼女はどう、あなた以上に仕事に愛情を持っているようだ。・・・・・・かえって難攻不落かも

知れません。せいぜいご精励されることですね。要塞攻略の如しです。」

「だから、片思いだと言っているだろうが。」



アッテンボローは珈琲を飲み干した。



「年金だのなんだの、まったくヤン・ウェンリーとつきあう連中は言うことが凡庸で困る。

才能恵まれた医者であれですからね。多分絵の値段を知って辞退されたんだろうけれど。

ま、逃げ口上にしても見苦しいことこの上ない。あいかわらず口の悪いひとだ。」

リンツは笑みをこぼしながら言った。



にしても・・・・・・



「なんだよ?おれの顔見て、面白いか?」



ぶしつけな視線にアッテンボローは言った。リンツはじっと彼の顔を見ていた。



「いいえ。あのとき、ミキ・マクレインは何というつもりだったんでしょうね。」

テーブルにひじをついて思案していた。


何が、と、アッテンボローはややぶっきらぼうに言う。彼は彼女に逃げられるのは慣れているので

そこに不機嫌さはない。要するに自分の恋心を人に知られたことが面白くないだけである。





「外交官夫人になってと私が提案したとき、彼女は明らかにあなたのほうを見つめましたね。

電話さえなければ・・・・・・面白い話が聞けたかも知れなかったのに。いや、残念。」



「あのな。愉しんでるだろ。お前。いいよなお前は婚約もして。」

アッテンボローが面白そうもなくつぶやくと、ミルドレッドが言った。



「やはり贈呈すべきですわ。カスパー。きっとそれがよろしいですわ。」

リンツは頷いた。

「そうしよう。婦長のアグネスに病院ヘの寄贈を申し出よう。そうしないといつまでも

あの毒舌女医はきままな独り暮らしから脱出できそうもない。老後はアッテンボロー閣下に

見てもらうように回りが仕向けないとこの縁組、ことがすすまないようだ。ね、閣下。」





青年外交官は頭を抱えた。その様子をリンツはご愁傷様といいやや愉快げに見つめている。



そうなのだ。

どうも恋敵は彼女の仕事だ。

しかも、世に役に立つ医師という仕事。



ミルドレッドの美味しい珈琲おかわりして途方もない現実の恋愛事情の厳しさに

ため息をつくアッテンボローであった。




by りょう



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