30・携帯電話
仕事が終わると女医はひとつ大きな伸びをした。ひと段落ついた真夜中。
コーネリアのまぶたはさすがに重そうで、もう診療所から帰っていいと女医は言った。
戦後の時代、医者の仕事は尽きることがない。ハイネセンは敗戦国に近い。
経済が活性化していないため人は働くところがない。収入がなければ食糧も調達できない世帯も
でる。万年栄養失調状態の子供が多い。
終戦とはそういう過酷なものであり彼女はそれを最前線で見ている。
ハイネセンは戦火の渦中を免れはしたが圧倒的に「労働する世代層」が戦争で死んでいる。
若年、壮年層が戦死して薄いため企業や国がどう援助しようとソフト面はフォローできない部分も多い。
そして結局バーラト星域の自治は認められてはいるもののハードウェアの面でも帝国に支援を
受ける形につながり、では過去のあの忌まわしい戦争はなんのためだったのかと
人々は懊悩する。
自由を手に入れたはずなのになぜ国は貧しく日常に潤いがないのであろうか。
人々は途方にくれている。
それに伴い無気力な成人が多く労働する場所もなければ、飲酒中毒ひいてはサイオキシン麻薬
にまで手を出す始末。娯楽も今のハイネセンでは、ないに等しい。
文化の復興とは容易ではないことが知れる。過日のようにカスパー・リンツの事業はじつに
有益なのだ。
民衆は希望を見失い、疲れ、目先の利益や快楽を求めるので犯罪が絶えない。
治安も悪い。警察機関も統制が取れておらず犯罪は増加の一途をたどる。
こんな状態で揉め事やいさかいは起こり事件になりけが人がここに集まる。
いまだに銃創の手術が日常だということがミキにすれば認めたくない事実。
そして栄養不良で病気になり深刻な病状を抱える民衆が多いことも、事実。
もし友人にジェシカやヤンがいなければ・・・
ミキもただ漫然と生れ落ちたときよりも以前から長く続く戦争を受け入れていたに違いない。
ヤンや大事な人々が遺した平和な時代を作るうえで泣き言は言わぬようにしている。
いきているからこそできることがある。
自分は生きている。多くの大事なひとを失ったけれど生きて医療に携わっている。
自分の人生はこの仕事にささげていいと常々思っている。
医者が少ない。
今日は4徹。
今晩はちょっと寝ようと思っているが急患が入れば当然出動になる。
診療所にはもう彼女ひとり。
プライベートの携帯電話をオンにする。
留守番電話が5件はいっていたが、そのうちの2件はかの青年外交官閣下であった。
『えー、お仕事のようなので、またかけ直します』
『あー。とくに重要な用事ではないから、またかけ直します。すみません』
用件が気になるところである。
用件を簡潔に入れておいてくれたら、気にならないのに。
女医は、そう思いつつも、くすりと微笑む。
彼の若さや、恋に不慣れなところまでも、今のミキにとって何か大事なエッセンスのように感じる
ことがある。
あの快活で純粋なたましい。
大人ぶって偽悪を装うけれど彼自身の本質は素直でそれは過去の自分を思い出させる。
口さがない人は戦争を楽しんでおきながらいまだに高給を取って外交官などをコネクションで
している悪辣な男とアッテンボローたちのことを言う。
ヤン・ウェンリーは死して、自由民主の象徴となった。
死を持って戦争責任をとかれたと。
しかし、その養子、妻、幕僚どもは生きて戦争責任も負わず帝国になれ親しみ、
ヤンの平和理念の旗の後ろにこっそり隠れて生きながらえていると報じるマスコミもある。
だが、ミキは知っている。
ヤンを失ったフレデリカやユリアンの傷も、キャゼルヌたちの痛みも。
もちろんそのなかでアッテンボローはそれすらも乗り越えて体を張って生きている。
彼には被害者意識がない。
それは自分で自分の人生の責任をおのずと取っている証である。
そんな成熟した彼を、ときどき彼女は思い出す。
そう。幼さも見え隠れする青年だが彼は自分のしてきたことの責任を果たそうとして生きている
成熟した人格。そこもとても惹かれる。どんな叩かれ方をしても彼は意に介さないで
「ま、言われて当然です。俺の場合は。」と微笑んでいた。
あのすがすがしさはどこから来るのであろう。なぜ大人で成熟したひとであるのにそんな純朴な
要素が残っているのであろう。ミキは不思議に思う。
時間は午前2時。
少し遅いだろうと思ったが寝ていれば電源は切っているだろうし、寝ているのをじゃまされたく
ないなら彼も個人通話用の回線は切っているだろう。
仕事をしていれば、これも同じ。
「イゼルローンが、その主ともいえる人物を失ったときもあの青年提督は前に進むことを
やめなかった。それはなかなかできることではないよ。誰しもヤン司令官を信頼しその人柄に
その働きにさまざまな思いを託していたころだ。凶弾に倒れ還らぬヤン司令官をろくろく
見送ることもできぬまま中将はヤン司令官の『民主、自立』のたいまつを絶やさぬように
奔走していた。次の世代にわたすために、その生涯を生き抜くことを決めたのだろう・・・。
なかなかできることではないだろうね・・・・・。」
そんな人物は、そうはいないものだよ。
父が話してくれた。
であってみて彼女は彼の空気がとてもなつかしくまた得がたいものであるとわかった。
とても、大事なものであると命に刻んだ・・・。
夜、急に彼の声がききたいときもある。
ただそれだけで、いいと思う。
『時間があればかけてください。私はいつでも、大歓迎です』
あちらも成人男性なのだしあまりこちらが気を使ってもよくない。
かけていいというのだから、それはかけていいということである。
彼はうそつきでも虚飾家でもない。
電話をかける。
ミキは遠慮をすることがないほうだったので彼女から彼の携帯電話に電話することが多い。
ピ。
ツー音のあとには3回目のコールで、やや寝ぼけた外交官閣下の声がする。
「いや、その、今度キャゼルヌ先輩が久しぶりに家に来いと言ってね。ドクターを招待しろと
うるさいんですよ。それでつい二度も電話をしてしまいまして・・・
・・・もしかしてまだ仕事ですか?」
青年外交官は電話越しに、つぶやいた。夜分におこしてすまないとわびると
彼はとんでもないと電話口で優しい声をかけてくれる。
「あまり無茶をしないでくださいね。そりゃ、医者は忙しいと思いますが。
ちゃんと寝ていますか?食べてます?」
何故か、彼から心配されるのをミキは好ましく感じていた。
わざと心配かけているわけではないのだが、彼の思考の一部分に自分が居住している
錯覚を覚えると、僅かに気持ちが安らぐ。
「食べてますよ。元軍人ですから。それに体も頑丈です。大丈夫ですよ。
閣下。」
「ならいいのですが・・・・・・本当にお忙しそうですみません。」
彼女はこの青年に恋している。
ミキ・マクレインはとうの昔に自覚していた。
あの青年の清廉な生き方やどれだけシニカルな人物像を演じてもなりきれない純粋さを、
とうの昔に、ミキは愛していた。
だが、彼の気持ちは知らない。
「医者不足は深刻ですよね。あ。ちょっと待ってください。かけなおします。」
彼はいつも電話をかけるとすぐにきってかけなおしてくる。
たぶん料金を気にしているのであろう。
すぐ電話がなって彼女は「もしもし」と電話に出た。
「すいません。まだ話していてもよかったんでしょうか。迷惑ならいってくださいね。
私は無骨な男ですから気配りが届かないと思うんで・・・・・・。」
「そんなことないですよ。閣下。料金のこともお気になさらないで。私仕事にあぶれることは
ないんですから。リンツの絵のことはからかっただけです。あ。あの時も先に
失礼をしましたわね。お詫びをしなくちゃ。」
親切で人当たりがよいという性質は彼の持ち前だろうし、かといって、他に女性と付き合っている
など言わない。それに周囲も二人が普段会うことをほほえましく見ているようなので・・・・・・
とくにキャゼルヌあたりは・・・・・・多分自分とこの青年はめあわされたのであろうとは思う。
といっても恋心というものは紹介されて芽生えるものではないから、彼女は彼の気持ちをしらない。
彼のそぶりを見ていると自分に好意はいだいているように思える。
友情という好意。
「いいえ。先生は貴重な人材です。私のような男が独り占めしてはいけないのですよ。」
とアッテンボローは目が覚めてしまったのかいつもの快活な声に変わっている。
「閣下なら見合うよい女性がおられるでしょう。」と以前いったことがあるが
彼は「さあ。いれば今一人身ではないでしょうね。私の隣はいつも空席なんですよ。
思うほど女性に人気はありません。恋人いない歴がかなり長いですね。まわりに小ばかにされますが
好きな女性がいなければ交際する必要ないような気もして。」
そういう意味ではこの青年は嘘をつく人種ではない。
ということは、現在、交際している女性はいないと見てもいいだろう。
そう女医は思った。
けれど自分と一緒にいても、彼はいつまでも特別なアプローチをしない。
これは彼女が彼にとって
『亡くなったヤン・ウェンりーの先輩の友人』
『生きているアレックス・キャゼルヌの友人』
『元、僚友のムライの娘』
『ダスティ・アッテンボローの友人』
このいずれかのポジションにいるのだろうと女医は出会ってまもないこの秋の初頭の
時点では考えていた。
なつかしい昔話をする相手は、一人でも多くいればいいものね。
彼女も懐かしい話をするこころやすらぐ話し相手は必要だった。
ミキはそう思っていた。
いずれにせよ友人でも十分だと彼女は考えていた。
げんに彼とは話も合うし時間を共有するには持って来いの人物だった。
「お詫びなど考えないでくださいね。先生のお仕事は大事なんです。私も
軍人ではなく医学を学べばよかったですね。お手伝いになったかわからないですが。」
彼の声はとても心地よく聞こえる。
時に胸が痛むときもある。
彼があまりに魅力的なので、友人のポジションから脱することがない自分の
女性としての魅力のなさに心を痛める。何せ自分は彼より2歳年上で結婚だってしていた。
誘う声は多いものの彼女も心に来るひとがいないから1人でいる。
Jのような男性を求めているというわけでもない。彼は別格である。夫でもあり、
家族だった。家族を忘れたりはできない。
アッテンボローは違った。
彼は自分のことをあまり女性に人気がないというけれど二人で街に出て振り返る女性も多いし
ミキが見てもとてつもなく美しい男ではないが、親しみが持てるちょっと素敵な男性だと思う。
キャゼルヌなどは無責任にけしかけている風があるけれど、それは彼に失礼な気がする。
彼女は自分が異性から魅力的に見られていることも、自分の母親の外見を受けついでいることも
しっているから美人ではないとは思わない。鼻にかけてはいないけれど母は美人であるし
似ているから、たぶん普通以上の容貌なのだろう。背がひくいことが嫌いなのであるが仕方がない。
けれど恋とは、愛情とは容貌だけの問題ではない。
ダスティ・アッテンボローという男性は楽観主義者でよくものを見ている。それも
真っ直ぐな視線で。そんな彼の背中にあこがれる。cuteな容貌に彼女は恋をしたのではない。
彼の快活さ。生きているその姿。生命そのものというような笑顔に確実に
彼女は惹かれていた。
懐かしい話ができる友人というポジションにいるだけでもいいじゃないかと思って
少し仕方がないなと思う。・・・・・・自分に魅力がないことは仕方がないことだと。
けれど彼がいる生活と彼がいない生活では・・・・・・彼がいるほうがいいに決まっている。
それで彼女はいいと思った。 恋をしても悪くはない。
片思いであっても、悪くない。 両思いなら、なおいいのだが・・・・・・そうは都合よくは行かないし
彼のような覇気のある青年にはふさわしいお嬢さんがいるはずだ。
自分のように人生を仕事にささげようと思っている結婚歴のある女性では
彼に申し訳がない・・・・・・。
彼は生きている。
ジョン・マクレインを精いっぱい愛したからこそ彼を精いっぱい見送ったからこそ
つぎの恋を受け容れる準備がミキの心の中に芽生えていたのだろう。
Jを見送るときのつらさはきっと誰もわからない。彼を恨んだこともあった。
生きている彼の・・・・・・たとえ人工的に生かされているだけの彼であれ生きている彼の
生命維持の装置をはずすときの彼女の思いは誰にもわからない。
今は・・・・・・・。
あれはJなりの愛情だったのかもしれないと思っている。決定的に生命が
消える瞬間に立ち会うことで彼は彼女を「解放」したのだ。
いつか次に誰かが彼女の隣に立てるようにとJは遺言にまで遺してミキを解放した。
他人はそんなJの生き方を批難するかもしれない。死に方を批難するだろう。
けれどミキはこの7年でわかったことがある。
Jは自分を本当に大きな愛情でつつんでいてくれた。
彼は彼女が幸せならばそれでよいと教えてくれた気がする。彼を愛している。
けれど彼とはもうあえないこともしっている。
そして7年たって彼女は年下の青年に恋をした。ただの弾みだと思ったり錯覚だと
思う努力もした。そして現在でも彼には彼にふさわしいひとがいるのだと言い聞かせていても
ミキはアッテンボローをいつもどこかで思っている・・・・・・。
誰かを愛せるのは悪くない。
そう、昔ヤン・ウェンリーに言われた。
好きだからこそ食事を作ったり電話をかけたりしている。
好きでない男にミキ・マクレインは甘くはない。 時間を割いてデートにつきあうタイプではない。
事実本当に忙しい。こんなことを考えていたらまた今夜もねはぐれる。
「え。今夜で四日も寝てなかったんですか。・・・・・・すみません。
俺ほんとに気が利かない。申し訳ないです。だらだらと話してばかりで。」
「いえ。気分転換になるんです。閣下もそんなときあるでしょう。本当に
眠いときは私は大人ですから寝るといいますわ。10代の少女じゃあるまいし。
これで今夜はゆっくり眠れそうな気がします。閣下の声を聞くと元気が出ます。」
お世辞でもうれしいですよとアッテンボローが言う。
お世辞なんか言う彼女でないことを彼は知らない。
彼と約束の時間と今度あう日をきめておやすみなさいと電話を切った。
あのひとに、また逢える。
どうすればもっと自分は彼につりあうような女性になれるのだろう。少しは前向きに考えてみようと
思うが。E式とは言えど2歳年上というのは気がひけると思っている。でもひがんでいても
きっとそれは仕方がないことで。
彼は服や、靴などで惑わされる類の安っぽい男ではない。とはいえすこしでも彼の前ではきれいで
いたい気もする。
それが、彼女の恋。かなわなくても誰かを好きになるのはいいことよねと
ベッドに横になって目を閉じる彼女。
そして、ここにも、電話を大事そうに握って夜中に起こされても平気でむしろ喜んでいる
青年がいる。
あのひとに、また逢える。
2人が出会って、まだ2ヶ月のころである。まだまだ二人は・・・・・・すれ違い。
じつは二人とも恋に落ちているのだけれど、まだまだ友人以上にはなれない時期のお話。
by りょう
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